「お別れ会」

昨日、ジャズ仲間のMさんの「お別れ会」があり、伺った。突然のことで、まだ、信じられない状況であったけど、心の中で覚悟をして伺ったのだ。祭壇の写真を見て、思わず涙が出た。小さくなった遺骨を見て、また、泣いた。
会は始終和やかで、優しい空気に包まれて、良い会だった。
その様子はここではお話しませんが、彼女が優秀で、素晴らしい才能があったこと。皆に愛され、皆を愛していたこと。優しくて可愛い方だった。本当に惜しまれてならない。
最後にご家族が挨拶されたが、彼女の旦那様に感謝し、深々と頭を下げていた。素晴らしい旦那様だったのだ。このような家族の在り方に感銘をうけ、また、泣いた。
昨今、家族でもいがみ合い、憎しみすら持つ方もいらっしゃるが、それは、情けない事だね。Mさんの信じ合うご家族の愛情を見て、ふとそう思ってしまう。
会には久しぶりに会う元・同じクラスの方やボーカルの方やミュージシャンの方もいて、いろんな話をするものの、また泣いてしまう。会場には彼女の映像やジャズの歌声も流れ、その姿を見て、とても愛しく、かけがえのない存在だったのだなと気付き、それは会場の皆様にとっても、同じ気持ち気持ちだったと思う。
少し前までは、悲しい知らせというのは殆どなかったのだが、ここ最近はそんな悲しみに出会い、この半年の間で3名の訃報がありました。悲しいとか寂しいとか、そんな言葉は超越して只々、考えさせられてしまう。
「死」という言葉が身近に感じ、つい、思いにふけてしまうのだ。
皆、ご主人様にとっては、いつも優しい言葉をかけ、応援してくれた方たちで、ふと、故人は「幸せだったのだろうか?」と問いかけると、皆、優しい顔して微笑んでいて、「大丈夫。私の人生は楽しかったし、悔いはないよ」と言っているような気がするのである。何というか「死」の悲しみではなく、今までの人生は故人にとってはどうだったのだろう?そして、大切なのは、その生き方や生き様であり、年齢ではないと悟らされるのである。
もしも、私だったら、「あの人は、凄く幸せな方だった。やること全部やったし、後悔なんてある訳ないでしょ!」そう言われ、悲しんでほしくない。ならば、今からその準備をしなくちゃ!故人の分まで頑張って、努力しなくちゃ!ご主人様はそんな風に思っていた。
随分前だけど、知人のミュージシャンの葬儀があり、伺ったことがある。受付には「仕事」「知人」「音楽関係」とあり、祭壇の横には愛用のウッドベースが飾られ、演奏風景のDVDも映していた。
もう一人は、会場に行くと、生演奏のバンドが入り、何故か楽しそうな音楽で、とても悲しい場面とは思えない雰囲気だったのを思えている。どちらも故人の遺志を尊重したもので、ご家族が故人を思うその思いが伝わってきた。今回の「お別れ会」もそうでした。