「私は貝になりたい」

8月15日は終戦記念日。たまたま、TVで四国の綺麗な風景が目に入り、そのまま見ていたら「私は貝になりたい」という映画だった。
良い映画だった。悲しくやるせない映画だった。戦争は嫌だと思う映画だった。
主人公は足が不自由で気の弱い青年。それでも、良き伴侶を得て、子供にも恵まれ、高知の漁村町で理髪店を営んでいる。貧しいながらも、ささやかな幸せをかみしめ、さぁ、これからだと思っていた矢先、「赤紙」が届く。
戦地に行っても何もできない主人公。ある日、上官から捕虜の殺害を命じられ、止むを得ず、剣を向けるが、未遂に終わってしまう。しばらくして、このことが「捕虜虐待」として問題視され、「東京裁判」でその責任を裁かれることになる。判決は「死刑」。不当な判決に対し、あらゆることに望みをかけるが、結局、判決は決行される。
その時に主人公がこう言うのだ。
「ふさえ、賢一さようなら お父さんは二時間ほどしたら遠い遠いとこへ行ってしまいます。 もう一度逢いたい、もういちど暮らしたい・・・・
お父さんは生まれ変わっても人間にはなりたくありません、人間なんていやだ。
もし生まれ変わっても牛か馬の方いい。
いや牛や馬ならまた人間にひどい目に逢わされる。
どうしても生まれ変わらなければならないのなら、いっそ深い海の底の貝にでも・・そうだ貝がいい
貝だったら深い海の底でへばりついていればいいからなんの心配もありません
深い海の底だったら戦争もない、兵隊に取られることも無い。
ふさえや賢一のこと事を心配することもない
どうしても生まれ変わらなければならないなら、私は貝になりたい・・・・・」
二等兵(最下級の兵隊)から見た戦争の現実。上官には逆らえない掟。アメリカ主体で行われた不正な裁判。戦争のなかでは人は正気を失い、真実は闇の中。
主人公のように不正な罰を受けた人はきっと多くいたのでしょう。
戦争とは、軍事力を用い、政治的目的、あるいは国家の利益のために戦闘を起すこととある。国家を背負い国民は戦うのだが、結局、傷つくものは弱い者。無抵抗な者である。それが一番悲しい。そして、それは今でも変わらないのだ。
おりしも今日は終戦記念日。あれから60年以上経つんですね。いつの世も悲惨な過去があったことを忘れてはいけないし、伝えていかなきゃいけない。そう思うご主人様。
そして、今は本当に良い時代だと思っていたら、「竹島」「尖閣諸島」の問題が浮上。聞いた話によると、韓国や中国は「半日教育」を行っているそうな・・・
戦争は終わっても、傷跡はまだ癒えていないのです。